最低限必要な機能を有した義歯の製作についての考察 その2・全部床義歯編
1.はじめに
本誌2022年6月号に掲載された「最低限必要な機能を有した義歯の製作についての考察 その1・部分床義歯編」で紙面の都合上掲載しきれなかった項目をこの場(テクニカルレビュー)にてお伝えする。「レビュー:批判的に確認する」この定義に従い筆を進める。
ここに記すのは当歯科技工所で日常業務として行っている保険適応の補綴装置製作工程の紹介である。「保険だから仕方ない」と最低限の機能すら有しない不良義歯が世間に数多流通している現状を憂い、最低限必要な機能を有した義歯の製作法を発表することで少しでもこの現状の改善に資すればと考える。一説によると歯科補綴件数の約9割が保険適応らしい。この部分の改善無くして現状の改善は困難と考える。
対価,使用材料、納期、など、自費と比較して格段に制約が多い保険適応義歯の最低限必要な機能は「咬めること」と考える。以上を踏まえ、わが恩師である故市波治人先生に教わった歯科技工士として補綴装置をどのように製作すべきかと、師に問いかけられた一人の人間として如何に生きるのかということを批判的に確認してみる。
2.材料と方法
一連の製作方法
補綴装置を製作する際に、わが師より最も重要視するべきは患者さんの現時点の顎位を大きく変えないことであると教わった。歯冠修復補綴であろうが義歯補綴であろうがそれは変わらない。
その理由は歯科補綴装置によって現状の顎位を極端に変更するのは患者さんの身体に過大な負荷をかけてしまうことがあるからである。特に筋力が弱く普段から身体を使った生活をしていない患者さんは要注意だと教わった。これは義歯を使用する年齢層全般に当てはまる要件と考える。
総義歯を製作するうえで最も重要視しているのは、再現性のある咬合採得によって決定された顎位を可及的に再現することである。「再現性のある顎位」とは言い換えれば現時点日常生活を営む上で身体に支障が出ていない顎位である。例え、その顎位が上顎骨に対して下顎骨の正中がずれていても、上顎に対して下顎が前方または後方に偏位していてもその顎位で咬める義歯を製作する。保険治療において顎位の補正を伴うケースは受注しない、それは保険の範疇では不可能と考える。
総義歯補綴治療の際、チェアーサイドにおいて最も重要な工程は咬合採得と考える。印象採得に不備があっても後の工程でリライニング等の対処が可能であるが、咬合採得のミスは即再製作に繋がる。そのもっとも重要な工程の合否に大きな影響を与えるのが咬合床と考える。しかし残念ながら、この重要アイテムの製作対価は極端に低い。特に保険義歯においてはほぼ無視されている状況である。当技工所では再製作を回避する為、ここに注力している。
咬合床製作の際は我が師より戴いた特製のろう堤を使用している。このろう堤の原型は正確に製作された総義歯にワックスを築盛して作られており、市販のろう堤よりもアーチが大きく、自動的に十分な舌房を確保出来る構造になっている(fig.1)。
咬合床製作時に特に意識しているのが舌の居心地である。舌の状態によって、顎位が決定されると私は感じている。咬合床の口蓋側舌側面形態により舌の状態は大きく左右される。したがって、咬合床製作に当たってはより完成義歯に近い形態を心掛ける。特に舌尖部が収まる下顎前歯舌側歯頚部付近の形態は棚状にして舌の納まりを促す(fig.2)。
最も避けたいのは何らかの理由で舌の位置が後退してしまうことである。こうなると下顎自体が後退位を取ってしまい「顎口腔機能学」の観点からも好ましくない。この観点からゴシックアーチトレーサーを用いるときは要注意である。十分な舌房を確保しづらいために上記の理由で下顎が後退位を呈することがあり、咬合採得後の検証は十分にされるべきである。
*ハルト式模型診断法ならびハルト式模型調整法、当技工所オリジナルの咬合床製作法は本誌2022年6月号サイエンスに掲載された「最低限必要な機能を有した義歯の製作についての考察 その1・部分床義歯編」を参照いただきたいとのこと。
一方、ラボサイドにおいて最も重要な工程は床用レジンの重合と考える。ろう義歯製作で理想的な形を構築出来てもレジンの重合作業で必ず変形を惹起してしまう。最大の課題はいかに重合時および重合後に変形の少ない重合法で床用レジンを重合するかである。当技工所はその対処法として現時点レジン重合システム(DSシステムSクラス オーディック株式会社)を使用することが最善と考えている。
次に重要なのは舌房の確保である。学生時代に習った歯槽頂間線の法則により歯槽頂のみに注目してしまい、その周囲に存在する舌や頬粘膜の作用を見逃していた私に我が師は天然歯が元在った位置に排列することの重要性を説いてくださった。この概念は先日東京都歯科技工士会主催のセミナーで加藤武彦先生が「デンチャースペース義歯」として解りやすく解説してくださっていた。
独立開業するまでに約30年間3か所の歯科医院で院内技工士として勤務し、途中の4年間は市波先生に師事する為に歯科医院の受付兼歯科助手兼時折歯科技工士として勤務した。最後の勤務先で最初に作った上下総義歯を装着された患者さんが感謝の手紙を担当医に送り、そのコピーを後日頂いた(fig.3)。ハルト式とは無縁の歯科医が採得した顎位は再現性のあるものであったため、その総義歯を装着した患者さんが今まで感じたことのない感動を体験されたようである。
我が師の教えに従い、元来天然歯が在ったであろう位置に人工歯を排列しただけでこのような結果を得た。それと同時に当時の私は相当な自信と確信を得たのである。
次に総義歯に付与すべき咬合について記す.それを簡潔に述べると、以下のようになる。咬頭嵌合位において前歯部は僅かに離開し、臼歯部は機能咬頭内斜面同士が接触し、上顎は近心斜面、下顎は遠心斜面が接触するようにする。
側方運動時は犬歯が主に誘導し、小臼歯群ものちに参加してくるような形状にする。
前方運動時は切端位までに生じる下顎を後方へ押しやる咬合接触点をすべて削除する。切端位でスムーズにグライディング出来るように調整する。
私が技工士学校在学当時はまだ「顎口腔機能学」が授業になく卒後数年経ってから教育科目として採用された。その補習を約2年前に三重県歯科技工士会が開催主体となった主催の技術安全研修「顎口腔機能学日技指定研修」とをして受講し、今年の4月にも東京都歯科技工士会の計らいによりが開催主体の同研修会をウエブにて、更にブラッシュアップされた内容のものを受講した。6月号の投稿にも記載したが、1992年に教育科目として採用された「顎口腔機能学」の内容と、1987年当時我が師より説かれた内容とが大半一致していた。この講義の内容を反映した咬合を付与すれば「最低限必要な機能を有した義歯」の製作は可能である。1991年以前に歯科技工士学校を卒業された方で未受講の方は是非とも受講していただきたい。
次に人工歯排列について記す。当技工所の場合、仮床試適がかなり少ない、再現のある咬合採得をするという意識が強い担当医のおかげで仮床試適がかなり少なく、即仕上げのケースが多い。その場合、咬合採得終了した咬合床は上下焼き付け隅で手元に届く。上顎模型の基底面を基準に咬合器装着する(fig.4)。
次にレジン仮床をワックスに置換する(fig.5)。 この際仮想咬合平面をキッチリ出す、ガラス板を当てながら正確に行う。上顎の咬合床咬合面が修正を受けている場合は担当医が印記した正中線と上顎前歯部切縁のラインを絶対基準として下顎臼後三角部とのバランスを観ながら仮想咬合平面を再構築する。
こうしてできた上顎ろう堤の咬合面にガラス板を当てながら上顎人工歯排列を行う(fig.6、7)最後臼歯相当部のろう堤は最後まで基準となるので残す。
上顎の排列が終わった時点で前方側方運動時に早期接触を惹起させる部位を予め削合する(fig.8、9)。これをすることで相当な効率化が図られる。
次に下顎の臼歯部を第一大臼歯から排列する。咬合床ワックス部に与える熱の影響を考慮し、排列する順序は6番、反対側6番、7番、反対側7番、5番、反対側5番、4番、反対側4番の順に行う。最後に下顎前歯を排列する。中切歯から排列し、前方位で中切歯と最後臼歯の接触を確認したら、残りの下顎前歯を排列する。この際に下顎犬歯がスペース不足で入らない場合は第一小臼歯を削合する、スペースが余るようなら隙を犬歯遠心に挿入する。人工歯排列の最後は側方運動時、前方運動時のバランシングランプを確保する。
次に歯肉形成であるが舌房の確保と舌の安定を促すため極力左右対称の形態を心掛ける。
清掃性を考慮した歯肉形成を施し完成である(fig.10、11)。歯頚線の彫刻は前歯部のみ行い、臼歯部はシームレスな仕上げにする。保険適応の場合、口蓋皺壁は付与しない。発音に問題が出るという指摘もあるがそのようなクレームは一度もない。しかし、市波先生からは理想的な口蓋皺壁のワックスパターンを戴いているので必要な場合はそれを付与する(fig.12)。
次にレジン重合システム(DSシステムSクラス オーディック株式会社)にて精密重合重合しリマウント、最終的な咬合調整を行う。精密重合とはいえ、上下のフラスコを開輪して作業を行うので必ず僅かには浮き上がりが生じる。これは前歯から臼歯まで均一に浮き上がる。これを咬合器にリマウントすると丁番運動の結果、回転軸に近い最後臼歯の方が先に接触してくる。この誤差を修正するためにリマウントは必須である。レジン重合システム(DSシステムSクラス オーディック株式会社)の場合、この浮き上がりが極僅かなため上下顎同時重合でも調整量は微量で済む。最終研磨の前に両側性咬合平衡を確実に付与しておく(fig.13)。
最終研磨して完成(fig.14)。余分な窪みは一切作らず清掃性を考慮する。
3.結果
「最低限必要な機能を有した総義歯の製作」に必用な要件は、先ず再現性のある咬合採得。その作業を円滑にする条件を有した咬合床。切歯指導釘が付属した平均値咬合器に正確に装着すること。担当医が設定した仮想咬合平面を再現し喪失された天然歯が元在ったであろう位置に人工歯を排列し、左右両側で均等な咬合接触点を付与すること。十分な舌房を確保し極力左右対称な形態を心掛け、舌の安定を図ること。レジン重合後はその誤差を修正し、側方前方の各運動が円滑にできるよう、早期接触部を削除すること。最終研磨は「鏡面」仕上げを意識すること。以上の要件を満たしていれば保険適応の義歯としては十分であると考える。
4.考察
私が察するに、世に流通している保険適応義歯の大半がレジン重合後のリマウント調整が施されていないのではないか。最近取引が始まった歯科医院においてセット時の調整量の少なさに驚かれている反応を見るにつけ、いかにそれまでの調整量が多かったのかが想像できる。義歯とは「粘膜の海に浮かぶ小舟」との表現があるようにそのような不安定な状況で口腔内において重合時の変形量を修正するのは至難の業である。従って、不十分な調整の義歯を装着される患者さんが多数発生してしまい、そのような患者さんは満足するはずもなく、納得いかぬまま過ごすか、幾度も調整に来院することになる。結果として保険の義歯は合わないと酷評される。実に残念なサイクルである。当技工所近隣の得意先も遠く関東から発注してくださる顧客も以前と咬合採得の方法は変えていない。変えたのはハルト式義歯製作法の歯科技工所に替えただけである。
患者さんの声として時折メッセージを戴くことがある。旧義歯より今回の方が良いといったものが多い。作り方を変えれば保険の義歯でも十分機能すると強く感じる。
関東方面の歯科医院からのケースで最近よく感じるのは自費による歯冠修復補綴装置の不具合である。特に基本的な歯冠形態、調節彎曲、裂溝の走行方向等に理論を感じない、仮想咬合平面を一切考慮していない物が多くて大変難儀する。以前受けていた歯科治療に不満を持ち転院されてくる患者さんを診ている取引先が多いので、このようなケースが多々ある。原因はその部位だけを見て補綴装置を作っているからだと感じる。顎口腔全体を観てその一部を再現するという観点が欠如しているのだと感じる。是非とも自費で技工をされる方はこの点を考慮していただきたい.ハルト塾ではカリキュラムの最後に全顎の咬合を再現する課程があった。そのおかげで私は単冠の歯冠補綴装置から総義歯まですべて同じ理論で製作することができる。紙面の都合上、このテーマはまたの機会にと思う。今後これを習得されたい方は私が2018年10月に三重県歯科技工士会生涯研修自由研修課程で受講した前川泰一先生の「シークエンシャルオクルージョンの考えから咬み合わせの大切さを学ぶ」をお勧めする。
5.終わりに
先日、川崎の大亀先生より患者さんから感謝のメッセージを担当技工士宛という形で動画により戴いた。深く考えさせられる内容であった。70歳代の方で、17歳の時に事故によりで前歯を喪失。以降残存歯を失い続け30歳代で義歯を装着、激しい嘔吐反射と合わない義歯に苦しみ40年間を過ごす。縁あってこの度当技工所製の上顎全部床義歯、下顎14本部分床義歯を装着された(fig.15)。
「人生が変わりました。感謝いたします。」とのお言葉を頂戴した。義歯を入れていられるのが非常に助かるとのこと。この当たり前にたどり着くまでに40年もかけさせてしまった歯科業界に愕然とした。我々は悔い改める時期にあると強く感じる。このケースは決して特殊とは思わない。全国にはこのような不幸な方が多数おられると感じる。今こそ歯科業界全体で保険でも「最低限必要な機能を有した義歯装置」の提供を始めるべきと感じる。
今後の業界の展望として心強い事例を紹介する。「保険だから」という既成概念に正面から取り組み次々と結果を出している神山大地先生。ご講演を拝聴し感じたのは次世代の技工士さんは素晴らしいということ。取引先の歯科医院に再現性のある咬合採得を採っていただくために自身でゴシックアーチを活用したシステム1)を構築され、普及に努められている。再現性のある顎位を得ることが出来れば、後はこちら技工サイドがキッチリ仕事しますから・・・というスタンス。実に見事な姿勢と感じ尊敬する。今後はこうした真っ当な次世代に任せ繋げられればこの業界は大丈夫だと感じる。
一方、最低限の責任も果たさず保険点数だけ、技工料金だけ手に入れたい同業者輩が多く存在する現実もあると実感する。先日受注した義歯修理、他歯科技工所製作の部分床義歯、その設計と無残な有様に怒りすら湧いた(fig.16)。
当技工所の取引先は保険でもなんとか患者さんの機能を少しでも回復しようと奮闘されている。一方この義歯を製作した輩のようにで1点でも多く点数を上げようと適合など眼中になくただ維持装置を多く付けて不適合のまま患者さんに装着する同業者も存在する。もうやめましょう!食わんがための技工は。ほとんどの歯科医師は義歯装置を自身で完成まで製作出来ない。歯科技工士がいないとこの酷い義歯装置は世に出ない。これは製作されてから間もないのですぐに新製は出来ない、僅か数か月の間に2度も破折修理にみえている。このような物にも等しく保険点数は支払われ無駄に担当医と担当技工士の懐に入る。社会保障費の無駄使いに他ならず、このような同業者輩が跋扈する業界を国や国民が大切に扱ってくれるはずはない。先ずは我々が襟を正すべきだと思う。歯科技工はやりたいものがやってよい職種ではない、患者さんの健康増進に資する補綴装置を製作できる者のみ就業が許される職種と考える。真っ当なものを作りたいが取引先、販路に困っている同輩が居れば提案をしたい。私のように僻地、過疎、超高齢化が進んだ地方在住の歯科技工士は近隣に取引先が少なく、やむなく値引きに応じてダンピング技工を強いられている方がいるやもしれない。そういった方には是非とも技工所間連携2)、という仕組みを活用していただきたい。都市部に潜在する義歯装置を地方で製作し発送する仕組みである。自然に恵まれた住環境を変えず、受注量を増やす取り組みである。私の居住地三重県の場合、当日18時までに宅配配送センターに持ち込めば東京都内の取引先に翌朝配達される。これを利用すれば経験年数が豊富な地方のベテラン技工士の方にはまだまだ活躍の場があると確信する。
30年以上前、我が師に結婚の報告の為、福井県まで出向いた折、このように説いて頂いた「やりがいと生きがいを混同してはいけない」。当時の私には理解できなかったが、二人の娘に恵まれ子育てするうちになんとなく理解が出来てきた。歯科技工士はやりがいのある仕事、生きがいは他に在った。素晴らしい住環境を満喫し子を育み地域の一員として住民活動にも積極的に参加する。そういう姿勢を地域の方が認めてくださり、あなたの作る入れ歯が欲しいと言っていただく。これに対し「最低限必要な機能を有した義歯」を提供して応える。いわば、かかり付け歯科技工士である。これは患者さんの顔が判る小さなコモンゆえの理想的状態と考える。社会情勢が圧倒的少数の富裕層と大多数の庶民層に国民を分断している。それにコロナ禍と相まって都市から地方へと移住が増加している昨今、保険適応の機能する義歯装置を必要とする庶民層の需要とそれを供給する歯科技工士のニーズは増す一方と考える。住環境の良いところでは食料自給も安易に出来る。今後想定される食糧自給率の低下にも対応でき、楽しくものつくりを生業に出来る。実際私は自然農法の大家である。福岡正信先生の自然農場にハルト塾の仲間と見学に行ったことがある。現在我が子の為に無農薬無化学肥料栽培を実践中である。安心安全な食べ物を我が子に与えたいのはすべての親共通の思いに外ならない。しかし、現在の日本ではある程度の収入がないとそのような高価な食品は常時購入できない。だが、親自ら栽培すれば購入の場合の数%の経費で安心安全な食料が入手できる。
一部の富裕層を相手にした自費専門の歯科技工士の席は常に満席で空きがない。一方、庶民を相手にする保険適応の機能する義歯装置を作る歯科技工士の席は空きだらけである。是非ともこの空席を志高い方々に埋めていただきたい。大金を手にするのは困難だが「豊かな暮らし」は簡単に手に出来る。そのような暮らしに歯科技工士は向いている魅力ある職業だと感じる。
注釈
1) 株式会社CRAFT ZERO(代表取締役:神山大地)提供ゼロシステム
2) 株式会社コットンテール(代表取締役:奥村英世) 提供事業
参考文献
斎藤 幸平:人新世の「資本論」
出版社:株式会社集英社
発行者:樋口尚也
2020年発行